「もういいかい」サブテキスト ハンセン病問題と私たち
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第一章
1 島比呂志と「奇妙な国」(2分56秒)
星塚敬愛園(鹿児島県)の入所者で作家活動を続けていた島比呂志は1959年、昭和34年に「奇妙な国」という小説を発表した。島はハンセン病療養所を「奇妙な国」とたとえた。その国では滅亡こそが国家唯一の大理想とされたからである。
2 長島愛生園での証言(10分30秒)
長島愛生園(岡山県)を入所者の宇佐美治さんの案内で歩く。宇佐美さんは1949年、23歳で入所した。患者用桟橋、収容所、自殺の名所とされる崖、長島愛生園歴史館の展示などから入所者たちの知られざる暮らしの実態が見えてくる。
3 ハンセン病問題とは?(5分17秒)
邑久光明園の畑野研太郎園長が話す。ハンセン病は、らい菌によって起る慢性感染症である。1943年には治療薬プロミンが発見されハンセン病は治る病気となったが、国は入所者が死ぬまで隔離する政策を改めることがなかった。90年間に渡り三つの誤った法律により、ハンセン病に関する偏見、差別を拡大し続けたのである。
4 「癩予防ニ関スル件」と光田健輔(3分)
欧米列強に並ぶ帝国主義国への道を歩み始めていた日本はハンセン病患者の存在を「国辱」と考えた。医学者としてこの考えに大きな影響を与えたのが光田健輔である。国は「癩予防ニ関スル件」(一九〇七年)を成立させ患者排除に乗り出した。
第二章
5 外島保養院の壊滅(2分34秒)
「癩豫防ニ関スル件」の成立により、公立ハンセン病患者収容施設のひとつとして外島保養院(大阪市)が作られた。海抜ゼロメートルの土地にあり移転が計画されたが住民の反対で適わなかった。一九三四年の室戸台風で外島保養院は壊滅する。ハンセン病に対する偏見差別は爆発的に拡大していたのである。
6 「癩予防法」(旧)の成立と厳しい現実(5分11秒)
一九三一年、国は新たに「癩予防法」を成立させた。この法律では放浪するハンセン病患者だけでなく、すべての患者を隔離する「絶対隔離」につながる内容が記された。人々はハンセン病を以前にも増して「恐ろしい病」と考え、偏見と差別はますます膨れ上がるばかりだった。
7 大島青松園での証言(9分15秒)
大島青松園(香川県)で曽我野一美さん(一九四七年、二十歳で入所)、神(コウ) 美知宏さん(一九五一年、十七歳で入所)の話を聞く。お召列車、雑居部屋、偽名、解剖承諾書など「癩予防法」(旧)のもとでの過酷な入所者たちの生活が明らかとなる。
8 祖国浄化と無らい県運動(3分02秒)
戦争が拡大するにつれ、ハンセン病患者の隔離は「祖国浄化」のかけ声のもとに行われたそれは戦争に役立つ心身健康な民族を作るため、入所者たちを抹殺することを意味していた。国は、あらゆる所に隠れている患者を住民に密告させ、官民一体となってハンセン病患者を排除する「無癩県運動」を展開した。
第三章
9 星塚敬愛園での証言(5分34秒)
星塚敬愛園(鹿児島県)で竪山勲さん(一九六二年十三歳で入所、二〇〇四年退所)は火葬場や納骨堂を指し、療養所は病院ではなかったと語る。玉城しげさん(一九三九年、二十歳で入所)は最初の一年の厳しい患者作業で手に大きな障害を負ったと語る。実際多くの入所者が患者作業で重い障害を負ったのである。
10 懲戒検束規程と監房(1分50秒)
ハンセン病療養所には監房(=牢獄)が作られた。療養所に牢獄を作る根拠となった法律が「懲戒検束規定」(一九一六年)である。反抗的とみなされた入所者は、所長の一存で監禁や減食、謹慎などの処罰を課せられた。ハンセン病療養所の実態は収容所であった。
11 菊池恵楓園での証言(8分14秒)
菊池恵楓園(熊本県)を志村康さん(一九四八年、十五歳で入所)に案内してもらう。今も残る暗い監房。一部残された外塀の外側には堀が掘られていた。職員地帯と患者地帯には境界があった。亡くなれば解剖室で解剖され霊安室へ運ばれた。そこはかつて絶望感が漂う施設のたたずまいだった。
12 長島事件と重監房(4分17秒)
一九三六年八月、長島愛生園で抑圧に苦しんでいた入所者たちは患者作業を拒否し、療養の身でありながらハンガーストライキにまで突入した。長島事件である。当時の状況を知る加賀田一さんが証言する。入所者たちの反乱に肝を冷やした療養所長たちは懲戒検束規定による監房だけでは足りないと危機感を抱き、栗生楽泉園に重監房を作った。
第四章
13 断種/堕胎(18分40秒)
ハンセン病患者絶滅政策の中では子孫を残すことが許されない。療養所内で結婚する男性は断種手術を受けることが条件とされた。女性が妊娠すれば強制的に堕胎された。一九一五年より光田健輔が手術を開始し、全国の療養所がこれに倣った。星塚敬愛園(鹿児島県)の上野正子さん(一九四〇年、十四歳で入所)と玉城しげさん(一九三九年、二十歳で入所)が自らの体験を、沖縄愛楽園の金城幸子さん(一九五〇年、九歳で入所、二〇〇二年退所)は友人の体験を語る。
14 ソロクト(韓国)での証言(12分12秒)
戦前から戦中にかけて日本のハンセン病患者隔離政策は国内療養所だけでなく、植民地や占領地でも実施された。それは韓国をはじめ、台湾、中国、太平洋地域まで及んでいた。韓国のソロクトに作られた施設もそのひとつである。歴史的遺物が残る「国立ソロクト病院」を訪ね、日本同様、あるいはそれ以上の厳しい体験をした人々の証言を聞く。
15 「らい予防法」(新)と入所者たち(7分15秒)
戦後の日本では新憲法が施行され国民の基本的人権の尊重が掲げられたが、国はハンセン病隔離政策をかえることはなかった。戦前・戦中に続いて無癩県運動を展開し、一九四八年に成立した「優生保護法」では、ハンセン病患者とその配偶者の断種・堕胎が合法とされた。一九五三年には国が新「らい予防法」案を提出。それは旧「癩予防法」と何ら変わらず、ハンセン病患者の強制隔離を押し進めるものだった。入所者たちは強く反発し、予防法闘争と呼ばれる激しい抗議行動に入った。
16 新良田教室(5分16秒)
1955年、岡山県長島に邑久高等学校の分校として新良田教室が開校した。入所者のための高等学校設置で全国の療養所から希望に燃えた生徒たちが入学してきた。しかし、ここにも「らい予防法」の大きな壁がたちはだかっていた。生徒は教務室に立ち入ることを禁じられ、生徒が教員を呼ぶときは外にあるベルを鳴らして合図した。生徒の書いた答案は消毒箱で厳重に消毒された。
第五章
17 「らい予防法」継続と国民的忘却(5分45秒)
治療薬の進歩に伴い、1950年代のハンセン病に対する国際的な対策は、差別的な隔離政策をやめ、一般医療や公衆衛生の中で取り扱うという方向を示したが、日本ではこの流れを受け付けることは一切なかった。高瀬重二郎さんは1962年、「らい予防法」(新)成立の9年後、39歳で長島愛生園に入所した。2年で治癒したが家に帰ることはできなかった。偏見と差別の壁がたちはだかっていた。
18 「らい予防法」廃止と違憲国賠訴訟(17分25秒)
1996年「らい予防法」は廃止されたが、国は強制隔離政策の誤りを認めることなく、入所者たちが受けた莫大な人生被害に対する保障もなかった。1998年、星塚敬愛園と菊池恵楓園の入所者13名が、国を相手取り熊本地方裁判所に国家賠償請求訴訟を起こした。訴訟は広がり多くの人々が支援した。結果2001年5月熊本地裁で入所者たちは劇的な勝利をおさめ、ハンセン病問題の真相解明も開始された。
19 ハンセン病問題は終っていない(14分43秒)
入所者たちの国家賠償請求訴訟が勝利したことで、一時的に高まったハンセン病問題に対する国民の関心も次第に離れていった。しかし問題は山積している。なぜこのような問題が忘れ去られようとしていたのか、真相はまだまだ解明されていない。納骨堂の遺骨は故郷に帰る目途がたたず、入所者たちも故郷を喪失し高齢化が進む。退所者も未入所者も今なお根強い偏見と差別にさらされている。ハンセン病問題の本質は繰り返し語り継がれねばならない。
▼ 目次
・「三つの法律」が人々を金縛りにした 高橋 一郎
・ハンセン病とハンセン病問題 牧野 正直
・菊池恵楓園 入所者の今 志村 康
・退所者・非入所者の現状と課題 宮良 正吉
・教育現場でハンセン病問題を考える 新井 孝之
・「もういいかい ハンセン病と三つの法律」 シナリオ完全収録
川島信治
高橋一郎
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